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ひとえちゃんという美意識

私の母は、美人だ。
幼稚園児の頃からそのことにはなんとなく気付いていた。
お友達のお母さんと並んだとき、ウチのお母さんは断トツにきれいだなあと子供心に思っていた。
そんなことを思っていた幼児の自分の目はどうかと思うが、そうは言っても当時の写真の中の母はやはり綺麗である。ピンクレディーのケイちゃんにめちゃくちゃ似ている。
面長のたまご型の顔に、ほどよく大きすぎず小さすぎないサイズの目は目尻が切れ長で瞼を伏せたときに美しい弧を描くし、鼻筋も高すぎることはなくすっと通っている。頬も高すぎないので破顔大笑してもアンパンマンにならない。唇も顔のサイズにちょうどいい大きさで下唇がややぽってりとして、でも輪郭ははっきりとしており、口紅の広告に出てくる唇の形のような整ったものだ。
自分の母親相手によくここまで美辞麗句を並べられるなとは思うけれど、基本的に私の中の「美人の基準」は母が根底にあるのでこれは仕方がない。
私の思う「美人」は面長たまご顔、小さくはないすっきりとした涼しげな目で、濃い色の口紅が似合う、どちらかといえばキツネ系の顔立ち。
たとえば木村佳乃とか、武井咲ちゃんとか、愛してやまない夏焼雅ちゃんとか、あのテの顔である。


私の中にある「美人の基準」に自分の顔を照らし合わせてみたとき、どれだけ覚悟していてもがっかりする。
まず面長ではないし顎の尖り方がすごい。
目は小さいし頑丈な一重で、しっかりしたタレ目。
唇は薄~~く輪郭がぼやけているので濃い色の口紅は鬼門。
キツネ顔ではないしタヌキ顔でもない。なんか鳥類。

まじかよ、一つとてかすりもしねえ。…と小学校低学年時点では既に思っていたように記憶している。私は母に似ていないので、美人にはならないんだなと子どものうちから思っていた。
母の友人はもちろん「母に似た可愛い子ども」を想定して会いにくるから、私は「旦那さんによく似てるね」となんとなく気まずそうに言われ、母に瓜二つだった弟は「本当にかわいいね、将来ジャニーズに入れなよ!」と言われていた。
子どもの私が受ける評価は大体「旦那さんにそっくり」と「髪の毛がさらさらの茶髪できれい」と「手と足が大きいから将来背が高くなるね」の3つで、いま考えても褒め言葉に困ったときに出てくる3つという感じがする。考えようによっては、一種の大人からの呪いでもあるが私としては褒めどころを探してくれてありがとうな!みんな優しいな!という感じである。
母にもこの3つはよく言われていたけれど、女性として可愛いと思うものは私に身につけさせることになるわけで、可愛い~とたくさん言われて育った。親は可愛いって言ってるくれるし、人によっては可愛く見えるんだしいいか、と早くから達観していた。

私はその後、大人たちの予言どおりに「旦那さんにそっくり」で「髪の毛がさらさらの茶髪」の「背が高い」女子中学生に変身した。
誰でもそうだが、成長期を迎えると外見から「子どもらしい可愛さ」は消えていく。その結果、いよいよ私には顔立ちに可愛いと褒められる要素が1ミリもなくなった。
喧嘩っぱやいのと態度が悪いのは昔からのことだったが、思春期を迎えてそれはよりいっそう悪化の一途を辿り、母と言い争いをしない日はないような暗黒時代を迎えた。

そんなある日、いつもの言い争いの中で母に「そんなだからブスのくせに余計ブスに見えるんだ!」みたいなことを言われた。
母にブス呼ばわりされたのはこれが初めてだったと思う。
さすがにびっくりして次の言葉が出てこなかった。
そんな私を見てはっと我に返った母は狼狽しながら「ごめん、違うの、つい売り言葉に買い言葉みたいに口にしちゃっただけで」というようなたどたどしいフォローを始めた。
それによって「今まで言わないように我慢していただけで、この人はずっと私のことをブスだと思いながら育ててきたんだな」と私は深読みしてしまい、余計にローティーン私の心は傷ついた。
そこから始まる母との確執はおいておくとして、これをきっかけに明確に「私はブスなんだな」とはっきり自覚するようになった。

14~26歳までの12年ほど迷走した。
親がうっかりブスと言ってしまうほどの顔。ヤバイ。ヤバすぎる。どうにかしないと。
私は着飾るのが大好きなんだ!それに合った顔にしないと!
でも整形する金も時間も許可も何一つない!
じゃあとりあえずメイクだ!

そうして「青春を許される顔」を手に入れないと、私の人生に楽しいことが廻ってこないと確信して、私は県内随一の、何故だか死ぬほど派手なギャルとギャル男が通う高校へと進路を決めた。
ギャル文化終焉直前の異常に派手な時代だったし校則のゆるい高校に通っていたのでブスが隠せるレベルに顔にお絵かきをした。みんながみんなメイクもオシャレも好きな学校だったので、ここでの情報収集や意見交換は大いに私の力になった。ただしあまりにもケバかった。(しかしそれがいい。何につけても強さは大切だ)

大学時代はちょうど小悪魔ageha全盛期。こちらもブス隠しにはもってこいの最高のメイクが流行ってくれたおかげですっぴんがブスでも生きていけた。顔じゃないところに顔を書いても許された。

その後が問題だった。

社会人になってもなおこれまでのメイクで暮らすことは社会規範上、許されなかった。
「もうちょっと自然なメイクの方がいいと思うよ…?」と恐る恐る言ってくる先輩女性社員(たぶん私のことマジで怖かったんだと思う)には、教えてあげられるものなら教えて差し上げたかった。
「てめえみたいな元から見れる顔してる女と違ってなあ!!!!!!ナチュラルメイクでブスは隠せねえんだよバーーーーーーーーーーッカ!!!」」

濃いメイクは誰のことも救えるけれど、ナチュラルメイクは生まれながらのブスのことは絶対に救えない。私は今もそう思っている。

とはいえ、流行は刻々と移り変わり、自分のファッションの系統も変わっていくにあたり、そのままでいることは流石に無理だなと私も感じ始めた。
そして27歳、遂に私は最大にして最強のコンプレックス頑丈な一重まぶたとおさらばした。
何故ここまで耐えてきたのか意味がまったく分からないレベルで快適である。
いや、なんで出来なかったってオタ活に休みがなかったからなんだよ…ダウンタイムが取れないくらい現場があったんだよ…。

美容整形に関して賛否の「否」を突きつけてくる人というのはきっとこれからの時代もあまり減らないのだと思う。
ブス隠しにめちゃくちゃ濃いメイクを施していた過去と、二重にしたのでそれほど塗りたくらないメイクにしている今を比べて「今のナチュラルメイクの方が全然いいよ!やっぱさ、人間はナチュラルの方が可愛いって」みたいなことを言ってくる私が整形したことを知らないやつは男女ともに多数いて、結局「ナチュラル」ってなんなんです?と私は思わざるを得ない。
ナチュラルという言葉の意味は自然であることだそうですが、さて、どちらがナチュラルなんでしょうね。

かくして、最大のコンプレックスは取り払うことが出来、多少はブスレベルも軽減された私だが、一重まぶた時代に割と自嘲の意味で悪ふざけでつけたこの「ひとえ」という名前がなんだかしっくりきすぎて二重にした今も己の呼称として一番正しい気がしている。

私の本名には「美人の母」からの壮絶すぎる美の呪いがかけられているので、強そうだから気に入っているけれど自分にはふさわしくないとも思っている。
これは一重まぶたのブスである私の顔面にふさわしい名前ではない。派手に濃いメイクを施した私にのみ許される名前だ。
一重まぶたの人みんながブスではないし、それがあえてミステリアスで美しい人もいるけれど、私の顔は全体バランスからいって何より一重まぶたが場を乱していた。
SPEEDの仁絵ちゃんはブスじゃないし可愛いし、多分世の中のヒトエちゃんという名前の人の大半は私よりブスじゃないけれど、私個人の思いとしては一重まぶたのブスを自称するために使い出したこの「ひとえちゃん」という名前とそれを核に形成された自分はなんとなく自分らしい気がする。

あんなに持って生まれた容姿に抗って努力をしたのに、なぜかスッピンのブスの自分を称した仮名にこんなにも愛着を持ってしまうのだから、人の心と言うのはつくづくままならないものだなあと思う。

メイクで武装をすることも、自分のテンションを上げるためにメイクをすることも、単純に可愛いを消費して癒されることも全部楽しいし幸せだけれど、けれどもそれで作った自分をぽいと投げ捨てられる場所というのを私は欲しているのかもしれない。
そんなことを思った。



追記です
彼女にも彼女のブスがある - ぱられるぱられるルルルルルー