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あの日のこと

私は、「ふるさと」というものに憧れている。

自分を育んでくれた町とそこに住む両親に会うべく帰郷するということに憧れている。

私の父は生まれてから大学進学までずっと同じ町の同じ家に住み、幼稚園から一緒の友人たちに囲まれて育ったらしい。

そのためか、故郷を出て40年が経とうとする現在もふるさとというものが如何に素晴らしく、如何に愛おしい存在かということを頼んでもないのに教えてくれる。

そんな父に育てられたせいか、私は故郷というものの価値を非常に高く認めているが、だが私にはふるさとと呼んでいいものか悩む町しかない。

 

私は小中学生の9年を宮城県仙台市で過ごしたので、自分では育ったのは仙台だと思っている。

けれど、両親ともに宮城に縁もゆかりもないし、現在も神奈川県で一緒に暮らしている。

一緒に育った友達は今も仙台にいる子が多いけれど、帰る実家がないと何となく故郷とは呼べないような気持ちがして、大好きな街ではあるものの実は社会人になってから少し距離をおくようになっていた。

 

東日本大震災が起きた時、私は大阪に住んで大阪で仕事をしていた。

だから私は震災を経験していない。

正直なところ、大阪はいつもどおりの平和な日本だった。

最初の大きな揺れこそ、これは大きいなと思えるくらいの迫力だったものの、輪番停電があるわけでもなく、食料にも困らない。

私はそんな普通の、テレビの中にあるふるさとの景色だけがただただ漠然とした絶望感を連れてくるだけの普通の暮らしの中にいた。

何があったか知っていても、映像を見ていても、話をきけても、ああ私は経験はすることがないんだと思った。

それが許されないことのように感じて、私はずっと苦しかった。

自分が大切な愛する故郷として向き合いたいはずの仙台という街から力いっぱいに拒絶されたように感じた。

きっと私があの当時、自分の友人やその家族や、知らない誰かのためにやったすべてのことは、優しさでも正義でも何でもなく、ただ自分の故郷は仙台だという自分の主義主張のためにやっていたのだと思う。

ひどい人間だなと、毎年この日を迎えると思ってしまう。

その後、会社の偉いさんのお心遣いで復興関連の仕事にたくさん関わらせてもらうことが出来て、実際に流されて失くなってしまった街に立って、やっと実感のようなものはわいてきたけれど、相変わらず仙台という大好きな街と自分との距離は測れずにいて、なんとなく、もう帰ってはいけない街のように感じている。

 

後に震災で大変な目に遭った友人から話を聞いていたとき、本当につらいことも悲しいことも沢山あって、でもいつか誰かのためになるかもしれないから話すことはしていきたいけど、自分の大切な友達や子供たちにはこんな体験はしてほしくないと強く思っていると言われた。

そうだよね、と相槌を打ちながら、それでも被災しなかった幸せな私はすごく淋しいよと思っていた。

きっと毎年、こう思うんだろうなと今朝も震災のニュースを見ながら思った。