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東京 1

藤沢らへんの中学を卒業、横浜市の高校を卒業。
その後東京の大学を卒業して都内の企業に就職。

これが私の履歴書上の歴史で、紙1枚の歴史では私はまあまあ東京界隈で育った女である。
けれども私はこういう自分の履歴書を嘘八百だなと毎度のごとくしみじみと思う。
私の思う本当の私は、小中学校時代は仙台ですくすく育った田舎の子であって、東京界隈で育った覚えはちっともない。

私が育ったのは宮城県仙台市泉区八乙女。
家の周りにネギ畑や田んぼもちょろちょろと残る平和な町だ。
同じ年頃の子どもが沢山いたし、地元の中学はちょうど良い具合に荒れていて、清廉潔白すぎないところが楽しい郊外ベッドタウンだった。
友達と遊びに行くところは、近所の公園かダイエー泉中央駅の上のイトーヨーカドー。ちょうどバイパス工事を控えて近くの住宅街の一部が立ち退きをした後だったので、夜はその空き地に集まって花火をしたり無駄にモノを燃やしたりして遊んだ(※21世紀だと捕まるよね…)。
住んでいたのはそういうところだけれど、仙台には街があるから自分のことを田舎育ちとは思っていなかった。
東京で流行ったものはしばらくすると仙台にも進出してきていたし、三越だってあるし、バスも電車もいっぱい走ってるし。そう思っていた。
その上、仙台から東京は新幹線で2時間以下で着くほど物理的にも近いし、3千円代からある朝バスを使えば早朝に出て午後イチくらいには東京に着く。お財布にも持ち時間にも優しい。
そんな環境なので、周りに「東京に行ったことがない子」は居なかったように思う。
私たちは実にカジュアルに東京に遊びに行っていた。
1年に1、2回だけれど、友達みんなで早朝の仙台駅から朝バスに乗って東京に行って、渋谷や原宿でお買い物をしてプリクラを取って、19時の新幹線に乗って21時には仙台の我が家に帰るという日帰りツアーで十分に満たされていた。
東京はちょっとだけ遠いレジャー施設、程度の感覚だったと思う。
だから、上京したいという気持ちを私は持ったことがなかった。

父は超転勤族なサラリーマンで、私が生まれてから社会人になるまでの22年間で9回も都道府県を跨ぐ異動をさせられていたが、私と弟が付属校に通っていたため転入先の空きがない場合は元の土地に残って単身赴任というスタイルで暮らしていた。
だから、父が東京に転勤が決まったと聞かされたとき、当時中2だった私は当然、自分は仙台に残るものだと思っていた。
東京に行っくぞー☆みたいなノリで大喜びの両親のテンションには全然ついていけなかった。
中学2年生ともなれば、学校や習い事の友だちと高校受験の話をしたりもしていて、めちゃめちゃ具体的な進路を2,3パターンしっかりと自分の行き先として描いていたし、小中学校トータル9年間持ち上がりで一緒に育ってきた友達と別の学校に行くなんて全然考えられなかった。
このタイミングで一家で引っ越そうという結論を親が出したのは、ちょうど小6だった弟の中学受験に合わせるため&ちょっとした非行少女わたしをとにかく八乙女のヤンキーたちから引き離すためだった。
「みんなと一緒に卒業できなきゃやだ!!!!!!あたし引っ越したくない!!!!東京なんてクソじゃ!みんなしね!!!!」と大喧嘩に次ぐ大喧嘩をして、家出したりなんだりと抵抗する私に両親は「でも東京だよ?高校受験で都内の学校に行けばテレビに映ってる東京の女子高生になれるんだよ?放課後に渋谷とか原宿とかで遊べるんだよ?」と甘言を浴びせまくったけれど、そういう「東京の日常」を私は欲していなかったから最後まで納得も了承も出来なかった。
とはいえ中学生なんて、親についていく他に道はなく、脳内でドナドナを歌いながら私は神奈川県に越した。(東京じゃなかったんかーい!と思ったが弟の通学経路と私の転校先の事情で間を取ったら藤沢になった)
藤沢に越した中3わたしがその後どうなったのかというと、地元のヤンキーと引き離すために転校させたのに、ドラマの中の湘南という夢の世界しか想像していなかった両親は藤沢・鎌倉界隈が超絶ヤンキー発生地域だということもホットロードの現場であることも想定していなかったので、結局わたしは転校したことで反抗期っぷりにも拍車がかかり、転校先でヤンキーと仲良くなったのちにちょっとした事件で停学になり、嫌気がさして不登校になるという最悪のシナリオを辿った。
こうして文章にして書くとよく高校進学できたなって思う…。
正直、高校に行く気もまったく起きなくて、中卒就職可で住み込みの仕事が仙台に無いかガチで探していたので多分なにかしら病気だったのだと思う。
反抗期のエネルギーの持て余しぶり、本当に怖い。
当時uvで連載していた『思考回路』でキリトが「高校行った方がいいよ」って書かなかったら進学してなかったと思うので、キリトには感謝している。お兄まじでありがとう。

かくして、内申書がズタボロの極みだった私も大変に苦労はしたものの、どうにか横浜の女子高生になれた。
横浜での高校生活は素直に楽しかった。
良い先生にも友達にもめぐり会えてとても充実していたけれど、でもやっぱりどこか違うなとは日常的に思っていた。
彼女たちは、「放課後に東京に行ける」環境で生まれ育った人間で、そこで生活をすることは当たり前の人だ。
だから私が当時から今に至るまで抱き続けている「東京の人間ではない」という感覚は持っていない。東京との比較対象を持っていないし、この圏内から出ることには「都落ち」の感覚を持っていた。
横浜で遊ぶのにも、東京で遊ぶのにも、彼女たちは「ヨソモノ」である感覚を持たない。すごいなあと思った。同時に、自分とは違うなと思った。
この話を弟にしたときに「え、俺もそのヨソモノ感全然分かんねぇ」と言われたので、「ヨソモノ」として東京に遊びに行った経験の有無がこの差なのかもしれないとはなんとなく思う。
この感覚は、都内の大学に進学しても、都内の企業に就職しても変わらず私の中にある。
私は「東京」に対していつまでもきっと「異邦人」にしかなれないのだと思う。
旅行ではなく東京に行く人と私はやっぱり違うと思った。
それでも、社会人になれば東京にいるもっと多くの人とすれ違う。
自分の意志で上京してきた人、異動で上京させられた人。住めば都になった人、地元に帰りたい人。いろんな人がいる。
その中で自分がどこに位置しているのかは、近年分からなくなってきている。

自分の意志で上京してきたわけではない。
「住めば都」で東京を愉しんでいないわけではないけれど、でも帰れるものなら帰りたい。
けれど帰る場所も無い。
そんな宙ぶらりんのままで、18年も経ってしまった。
他社から見れば私は立派に都会育ちの人なのだろうと思う。
けれども私は自分をそうは思わない。

仙台の頃の友達のほとんどは、大学でも上京してこなかった。
上京してきた子もほとんどが地元へ帰って就職した。
それが多分私の地元で育った者が出す答えなのだと思う。

東京は、たまに行くから、いいところ。

やっぱり仙台に帰りたいなあ。
このブログを3ヶ月近くかけて書いて、そう思った。





けれどもまさに今、投稿しようとしている私は表参道のカフェでのんびりブランチセットなど食しておしゃれぶっているのでとてもとても矛盾している。