ぱられるぱられるルルルルルー

プリンセスたちを応援しています

レット・バトラーは現れないので。

言われるまですっかり忘れていたけれど、私は小学校の卒業文集の尊敬する人に「ジョセフィーン・マーチ(若草物語)とスカーレット・オハラ」と書いていたらしい。

「すごいよね、11歳にして非モテ極めてるよね!」
と、幼なじみ(新婚さん)に嬉々として報告された。
(イラっとしたので死ねっていうスタンプを30連打で送り返しておいた)

事実として、割と最近になるまで私はいわゆる強い女に憧れていた。
男に媚びない強い女という幻想に。
でも実際は、それなりに女を使える賢い女の方がずっと強いことには気付いていたけれど見ないふりをして今まできた。
だって私にはそんな風に生きることは出来ないと分かっていたから。

昔から愛想が無いとか気が強過ぎるとか言われてきた。
人に好かれようという態度をうまく取れないし、どうすれば好感を持ってもらえるのか昔からさっぱり分からなかった。
分からないものにはなりようがなくて、だから強く気高いあまりに敬意を持って愛されるジョーやスカーレットみたいになりたいなあと思っていた。
とはいえ、私はその二人みたいに極めて優れている部分がある人間ではないので、そんな人生が叶うはずもなく、じゃあ自分に最大限プライドを持って生きられるようにしたいなと思った。

そうしてたどり着いたのが、天上ウテナの「潔くカッコよく生きていこう」精神だった。
自分なりに潔くカッコよく生きることは楽だった。
自分が誇れる自分でさえあればよかったから。
気が強くて力持ちみたいな感じで自分を持っていて面倒見がよくて、そして男に媚びない自分っていう当時の私のことを私はとても好きだった。

だけど、それじゃ恋は叶わない。
普通の男の子は、ジョーよりもメグやエイミーが、スカーレットよりメラニーが好きだから。
単純な話だ。
そこで私がもっと賢く振る舞えていたら、くだらないプライドに重きをおかずにいられたら、良いことがあったかもしれないけれど、私は私を捨てられなかった。

一般社会に出たら私はその、カッコいい私のままではいられない。
あれが通用したのは私たちのリトルワールドたる隔離された世界だけだったから。
社会にとっての私なんて、何の強さも価値もない、ただの可愛げのない気の強い女にしか過ぎなかった。
そうして私は25をすぎてやっとこさ妥協を覚えて、女としてうまく立ち回ることを覚えた。
覚えたけれどもう手遅れだった。
そういう風に最近感じる。

強くあることと強く見せていることは違うし、強くあろうとすることがひどく疲れることも知っているけれど、自分のプライドのために頑張ることでしか自分を律することが出来ないという手癖がついてしまっていて、芯の部分が腑抜けてしまった私は何も頑張れないから、今の自分が好きじゃない。
うまく生きることができるようになったのは事実だし、それによって徳が出来るようになったことも事実だ。
だけど、自分のことが好きじゃないから、何も誇れないなあと思う。
こんなことならスカーレット・オハラになりたいまま、自分は自分のままでいつか出会えるかも分からないレット・バトラーでも待っていた方が良かったんじゃないかとすら思う。

丸くなったねとか、大人になったねとかいうことを最近よく言われるけれど、それは本当に良いことだったのだろうか。

あの頃エリザベートのことは知らなかったけれど、知っていたらきっと好きだといっていたと思う。
今の私にはとんでもないわがまま女としか思えないけれど、昔の私なら自分のテーマ曲に「私だけに」を選んだろうとも思う。
今の私は「私だけに」も「私が踊るとき」も似つかわしくない。
つまんねー女になったなあと思う。

私があの頃の私のことを嫌いじゃなかった男の子のことだけが今でも好きなのは、彼らがいつか私のレット・バトラーになってくれるんじゃないかと思っているからかもしれない。
こないだお世話になってる人に、「ひとえちゃんの無駄に崇高な魂にあの子が追いつくにはあと10年くらいかかる」って言われたけれど、そこで追いついてくれるなら本望だなあと思う。
あの子はみんなが思うよりずっといい子だと私は知っているけど、魂のレベルが低過ぎるっていうのもちょっと分かる(笑)
幼稚園児だったころ、両親が面談で園長先生に「あの子はどこかただの子どもではない強く光るものを持っているので、確かに普通の子とは大きく違ったところはあってご両親が気に病むのは分かりますが、普通になるよう矯正するような教育はなさらないでください」と言われたことがあると父から聞いた。
母親にはそこを矯正する方向で育てられたので、結局はどこにでもいる普通の人にしか育たなかったけれど、前述の「無駄に魂が崇高」っていう評価をきいたときにこのことを思い出した。
これ以外にも時々そういう風に言われることはあったけれど、結局私は平凡なひとりでしかないので、そこにどういう付加価値をつけて自分の納得できる自分に成れるかばかりいつも考えている気がする。
人に好かれるより認められるより、自分が自分を肯定したいだけなのだ。
私はエリザベートという人のことがあまり好きではないけれど、自己肯定>他者からの好評価という生き方をしているという意味では理解できる人かもしれない。
もう一度、「私だけに」を背負える女になるか、平凡に幸せな女になるために妥協をするか。
30になる前に決められたらいいなあと思う。